不易流行

大東流合気柔術

武田惣角
武田惣角

大東流合気柔術とは、

伝承によると、開祖は、新羅三郎源義光(?〜1127)とされ、代々、清和源氏に受け継がれ甲斐武田家に伝えられたとされる武術です。甲斐武田滅亡後は会津藩御留技の“御式内”として藩内のみに伝承され、明治の代になって会津出身の武田惣角(1860〜1943)が御留技であった“御式内”を世に出したもので、会津藩家老西郷頼母により大東流柔術と命名されたと云われています。

※“御式内”は“御敷居内”の聞き違いだと思われます。

 

大東流柔術は、合気道の基となった武術としても有名です。

 

大東流柔術の中興の祖とされる武田惣角は福島県会津坂下町出身で、幼少の頃より、父惣吉から、槍術、剣術、相撲、柔術を学び、東京の直心影流剣術家榊原鍵吉の内弟子となるなど武術の英才教育を受けたと言えます。

38歳頃から各地を訪れ大東流柔術を教授するようになりますが、55歳で北海道にて植芝盛平と出会い、植芝盛平に大東流を教授することとなります。

63歳頃から大東流柔術を大東流合気柔術と呼称し始め、晩年は、ほとんどを北海道で過ごし、死ぬまで大東流合気柔術を教授したと言われています。青森にて死去、享年83歳。

 

大阪朝日新聞社に伝わった大東流合気柔術

免許皆伝を授かった久琢磨
免許皆伝を授かった久琢磨

昭和8年、右翼勢力に付け狙われていた大阪朝日新聞社で自警団をつくる事となり、当時庶務部長だった久琢磨(1895〜1980)に指揮が任され、同朝日新聞社で神戸高商の先輩でもあった石井光次郎の紹介で、後に合気道の開祖となる植芝盛平を招き師事することとなったのです。

当時、植芝盛平は大東流の名前は使用せず“旭流柔術”“合気道”として武術指導を行っていますが、その内容は今の合気道とは違い、大東流そのものだったと言えます。

昭和11年、武田惣角が突如として来阪、大阪朝日新聞社の道場に現れたことから、以後武田惣角から大東流合気柔術を教わるようになります。この際、植芝盛平が顔も出さずに東京へ帰ったことから、大東流一派の植芝盛平批判が始まります。

昭和14年、久琢磨が武田惣角から門人中唯一免許皆伝を受け、戦後の昭和34年、関西合気道倶楽部を開設。昭和43年、久の東京への転居で閉鎖する事になります。

 

現在、関西を中心に活動している「琢磨会」は、関西合気道倶楽部閉鎖後も稽古を続けていた門弟達が昭和50年に結成した団体です。

昭和55年、久琢磨は神戸で死去、享年84歳。

 

天津裕だけに伝えられた武田流

天津裕
天津裕

武田惣角は、久琢磨に「この柔術を朝日新聞で継承して欲しい。特に朝日新聞社の記者に教えて欲しい。」との願いを告げており、それ以来、久は大東流を継承してくれる記者を探していたのです。

印刷局に移っていた久は、頻繁に編集局の者を稽古に誘ったのですが、いくら勧誘しても興味を示す者は居らず誰一人稽古に参加しなかったのです。記者に教える事を諦めていた久の下に、自ら弟子入りしたのが若き編集局員の天津裕(1937〜2013)だったのです。

久は大変喜び、天津のことを我が子の様に可愛がり、天津だけに武田流の大東流合気柔術を教えることになったのです。

久は、武田惣角、植芝盛平と言う二人の天才武術家に大東流合気柔術を習っており、弟子達には武田流と植芝流を織り交ぜて教えていたそうですが、弟子達が喜んで稽古するのは植芝流の柔術であって、結果として武田流を教える頻度が少なくなっていったそうです。

そんな時、記者であった天津裕が入門して来たわけです。

久は、天津に対して武田流を手取り足取り教え込み、秘伝八段教授代理を与えるほどになります。しかし、天津は昇進と共に稽古の時間を無くし、大東流を止めることとなります。

天津裕が大東流を再開するのは、久の没後、天津の枕元に久の霊が立ったことで琢磨会に指導者として復帰します。

 

記録映画「日本の古武道」大東流合気柔術編

昭和54年に財団法人日本武道館が文部省の後援を受けて制作した記録映画第1号。

晩年の久琢磨と、撮影のため集まった弟子達、演武する天津裕を見る事が出来る。

尚志会と天津先生

尚志会の前身は、大東流合気柔術琢磨会のクボタ支部なんです。そこで稽古していたのが尚志会創設メンバーの三名、善野、野口、石井です。善野と野口は岸和田の幼馴染み。善野と石井が職場の先輩後輩と言う関係です。

尚志会を立ち上げる事となった理由の一つが琢磨会の一部で語られる植芝盛平批判でした。善野、野口、石井三名ともが合気会(合気道)の経歴があり、植芝翁を尊敬する三人にとって植芝翁への悪態は聞くに堪えないものでした。

そんな時、植芝批判を語る勢力を一喝してくれたのが天津先生でした。胸がすく思いだったのは言うまでもありません。三名と天津先生の距離が急激に縮まって行ったのです。

 

 「我が流派が本流であり一番優れている」と権威にすがる傾向がある武術の世界で、そんな亜流に甘んじること無く「武術の種類や流派に囚われず唯真面目に稽古する」ことを趣旨とし武の道を究めようと、平成9年、善野を筆頭にして発足したのが「尚志会」なのです。

 その後、三名は天津先生に師事しながらも、野口は大東流合気柔術の内なる方向への研究、石井は大東流と合気道の融合、善野は空手への展開と各々がそれぞれの方向性を探ることになり、平成13年、更に志を同じくする遊武会が尚志会に加わることになります。

 

大東流の技を基に色んな武術の技や稽古法を取り入れて独自に稽古している姿を気に入ってもらえたのか、天津先生には本当に可愛がって頂きました。天津先生の尚志会への信頼は厚く、武田流の大東流合気柔術を映像として残されたのも琢磨会ではなく尚志会なのです。

 

天津裕著「生きている幻の古武道 〜免許皆伝・久琢磨の教えた大東流〜」

生きている幻の古武道
生きている幻の古武道

何故、天津先生が尚志会に武田流の大東流合気柔術を伝えられたのか?それは、天津先生が書かれた「生きている幻の古武道」(平成18年発行)を読んで頂ければ分かります。

その内容を詳しく列記するのは控えますが、冒頭の一文をご紹介します。

 

〜合気道の源になったとして知られ正式の名を大東流合気柔術という古武道は、朝日新聞社と縁が深い。ただ1人の免許皆伝者・久琢磨は元社員。社内にはほかにも2人の師範代、私も含めれば8人の教授代理がいた。その久が亡くなって25年。大東流の正史も久の実像もかすみ、虚像がしだいに大きくなってきている。・・・中略・・・ 事実を公表するのは久に対する責務だろう。もともと新聞記者、筆をとる気になるのに時間はかからなかった。〜 (天津裕著「生きている幻の古武道」より)

 

ここで勘違いされないように書いておきますが、尚志会だけに武田流が伝えられた訳ではありません。天津先生は琢磨会の指導者で、当然のことながら先生が指導された岸和田の道場やクボタの月曜日・土曜日クラス等で武田流の一部が伝えられています(そう願います)。

 

夢塾の考え方と稽古方法

夢塾では権威主義をとっていません。つまり「本家=伝承されている」「直伝=本物」「五段=強い」・・・等々、何の根拠もなく無条件に権威を信用し従属すること、またそれを強いることは行っていません。唯純粋に武術の稽古を行っています。

平成11年の開設以来、大東流合気柔術琢磨会に伝わる型を基に合気道等の各流派の技や稽古法、時には武術の枠を超えて空手や拳法のそれをも取り入れ稽古を行ってきました。古流と新流を車の両輪とした稽古と言えます。これは単に平面的に技をコピーするのでは無く時間と共に変化していった各流派を別次元として立体的に理解し技を会得しようとする方法で、あたかも網の目の様に地中深く広がる巨木の根っ子を考古学の発掘さながら浮き出しにしようとするものです。

天津先生と石井
沖縄の居酒屋にて天津先生と石井

この稽古法は、天津先生にもお墨付きを頂いた方法です。

塾長の沖縄移住後は大東流色が薄れてきていましたが、平成25年に天津先生が他界されたことで天津伝を伝承する必要性を感じると共にその使命感に駆られて平成26年5月より“天津伝大東流合気柔術”を中心に稽古することになりました。

天津先生だけに伝わった武田流の大東流合気柔術は、現在知り得る武田惣角先生のオリジナルに最も近いものであることは確かです。この事は、天津伝が大東流を理解する上で必要不可欠であり伝承していくべき重要なものであることを示しています。

 

現在、夢塾では天津先生が残して下さった映像を基に出来る限りオリジナルに近い形で稽古しています。天津伝の伝承を目的の一つとして稽古しますが、新たに判明した大東流の真実も加えて日々進化した内容になっています。

Copyright © 2014 Hironori Ishii

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